紙をつくった男の話
ミラノ周辺の労働組合を掌握し、北イタリアでは多くの自治体幹部を選出していました。
手当たりしだいに騒乱やストライキを起し、差し当たっては事業がやりにくい情勢になっていました。
いずれはまったく経営が不可能になる恐れがありました。
朝鮮で戦争が起きると、緊張はさらに高まりました。
クロフタは再び移住を決意しました。
行く先はアルゼンチンかアメリカ合衆国。
アメリカの場合、移住それ自体が難しい上に、少数の大手企業に押えられている製紙業界へ入り込むことも困難だという話を聞いていました。
そこでクロフタは最初アルゼンチンとその国内にある大きなスロヴェニア人社会に重点的に働きかけました。
しかしアルゼンチンはその申込みを拒否しました。
そして思いがけず、アメリカ合衆国が彼らを受入れたのです。
戦後、政治亡命者のために始めた流民受入れ計画の最後の家族のなかにこの一家を加えたのです。
この受入れ計画はそもそも同情から始まった活動でしたが、結局その後の30年間にわたってアメリカ経済に有用な多くの人材をもたらすことになりました。石塚孝一氏によると、クロフタは他の多くの移民と同じく、仕事も縁故もなくアメリカに渡りました。
ただしイタリアを発つ前に、彼がヨーロッパ代理店をしていたあるアメリカ人経営者との間で、ニューヨーク州アンクラムにある製紙工場を買取る話がまとまっていました。